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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第2節 白い罠 [8]




「別に、だれが廃人になろうと、私の知ったこっちゃないもの」
「やめろよ」
 肩に乗せられた手を、美鶴は鬱陶(うっとう)しそうに振り払う。
「アンタにそんなこと言われる筋合いないでしょう」
「美鶴……」
「それにしても……」
 ゆっくりと山脇へ向き直る。
「想像力が(たくま)しくて尊敬しちゃう。でも、アンタの言ってることって、全部憶測よね?」
「確かにね」
 美鶴の言葉にも動じない。笑みすら見せるその余裕が、気に入らない。
「でも、全くハズれてもいないと思う。自殺した子は、たぶん売人の金ズルだったんだと思うよ。それを失ったんだから、新しいのを探すのは当然じゃない?」
「同じ学校の中で探すかしら?」
「別に同じ学校である必要はないのかもしれないけど、ウチの学校は金持ちの子供が多いみたいだからね。欲深いヤツならこだわるかもしれない」
 嘲るように笑ってやったが、それに対しても相変わらず柔らかな物腰と優しい微笑みで返してくる。美鶴は失笑した。

 気に入らない

「私には関係ない。興味ない」
「君がどういうつもりかなんて、相手には関係ないんだよ」
 そこで初めて、笑みが消える。
 表情を失った顔は、まるで能面のように固く動きを止め、瞳までもが凍ったように固まった。揺ぎ無く一筋に向けられる視線に意思の強さを感じ、また同時に、なぜだか焦りのようなものも感じられる。
「大迫さん、そんな態度でいると、知らないうちに(おとしい)れられてしまうかもしれない。知らないヤツに利用されてしまうかもしれない―――」
「私はそんなバカじゃない」
 吐くように呟いた。

 そう、私はそんなバカじゃない

「バカとかバカじゃないとか、そういう問題じゃなくって………」
「じゃあどういう問題?」
 強く言葉を遮られ、聡は絶句する。
「騙されたり陥れられたりするのは、その人がバカだからじゃない? 違うの? どうなの? 騙されるのはその人がそれだけ愚かだからよ。陥れられるのは、心にスキがあるからよ。違う?」
「そういう場合もあるけど、でも違う場合もある」
「違う場合って?」
 今度は山脇へ噛みつく。
「違う場合ってどういう場合? どういう場合なのよ! 説明してよ! ほらっ! 説明してみなさいよ!」
 声を荒げる美鶴に、山脇も聡も息を呑んだ。美鶴自身すら、なぜ自分がここまで興奮しているのか、はっきりとは理解できない。
 ただ山脇に、自分が利用されるかもしれない と言われたのが、今も耳の奥にこびりつく。
 私が誰かに利用されるなんて―――
 そう思うと、胸の内から気管支を通って激しい蒸気が噴出してくるのを感じる。

 ――― 止められない

「説明できないじゃない! 陥れられるヤツわねぇ、バカなのよ! 私は違う。私はもうそんな風にはならないからね」
「もう?」
 聡が首を捻った。
「もうってどういう意味?」
「アンタ、日本語もわかんないの?」
 途端に、聡が手前の台を叩く。
「なんだよ、その言い方っ」
 乗っていたコーヒーカップがガチャリと跳ねる。
「ムカつくなぁっ! ふざけんなよ!」
「ふざけてんのはそっちでしょう!」
「はぁ?」
 美鶴も負けずに怒鳴り返す。
「アンタ、私のこと、まだ騙されやすいバカな女だとでも思ってんでしょ!」
「何だよ それ! 思ってねーよ」
「思ってる。絶対思ってる! だってアンタ、そういうヤツだもん」
「何だよ それ!」
 腰を浮かせて(つか)みかかるのを、山脇が必死に止める。
「やめろって」
 だが、聡の怒りはおさまらない。美鶴の肩を掴んで放さない。
「俺がいつお前のこと、そんな風に思ったんだよっ」
「それはっ……」
 もう一人の自分がギリギリ言い留まらせる。だが美鶴の理性は、蜘蛛糸のようにほっそりとしたもの。いつ切れてもおかしくはない。
 聡は目を細めた。
「何だよ。言えねーのかよ」
 口元を吊り上げ、小バカにしたようにニヤリと笑う。
「言えねーじゃんか」

 やめろっ!

「え? なんだよ。口先だけかよ?」

 そのバカにしたような視線はやめろっ!

「その場限りの口先女か?」

 私をバカにするなっ!

「お前は、バカか?」

 ―――――っ!

「中二のときっ!」
 思わず、片手で口を抑えた。半ば放心したように両目を見開く。
 聡は呆れたように、ゆっくりと一度だけ瞬いた。
「やっぱりな」
 肩から手を放すと、前髪を掻きあげて少しうつむき、目を閉じた。肩に届くか届かないかの後ろ髪と、掻きあげられた前髪から、(ほの)かな香りが漂った。
 上二つのボタンを外したシャツから、浅黒い肌が覗いている。その下の逞しい胸板が大きく揺れ、それと同時に深く息を吐き出した。
「考えたんだけど、それしか思いつかねーもんな」
 ()()無さそうに少し苛立ちを含んだ細い瞳が、上目づかいで美鶴へ向けられる。
「お前、まだひきずってんの?」
 いまさら、ごまかしが通用するはずもない。巧みな挑発などという卑怯な手を使った聡に腹が立ち、同時に、いともあっさりひっかかった自分を情けなくも思う。
「アンタには……わからない」
 震える声を、どうすることもできない。声だけじゃない。肩が、全身がガクガクと震えるのがわかる。寒いわけじゃないのに、寒気が走り、指先に力が入らない。
「わかんねーよ」
 ()れったそうな呟き。
「あんなくだらない男のどこがいいってんだよ」
「そんなんじゃない!」
「じゃあ、なんだってんだよっ!」
 再び怒鳴り声をあげ出す二人の間に山脇が、こちらも再び割ってはいる。
「それって……さっき言ってた失恋がどうとかっていう――」
 聡の両肩を掴んで突き放しながら、美鶴は山脇へ当り散らす。
「アンタには関係ないでしょうっ」
 さすがに憮然(ぶぜん)とした態度で言葉に詰まる山脇。もう一言怒鳴ってやろうと言葉を考えているところへ、母が帰ってきた。
「何を怒鳴ってんのよ。こんな深夜に迷惑でしょう」
 緊張感のない母の声に、その場の雰囲気は冷めてしまった。







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